元ネタは『この世界の片隅に』の漫画版には多分無かったシーン、映画版で追加されたと思われるシーン(→ではなく、映画版では冒頭付近のシーンなのに、漫画版では昭和20年6月の劇的な回想シーンの場所から移動させた?確かにそうしないと、観客の心がもたないかもしれませんし、ライン・スタンプのネタにも・・・もう何が何やら・・・)のセリフ、主人公・すずの「ボーッとしちょるけえ」な性格で、お裁縫の出来の悪さに呆れた肉親の小言「お嫁に行かれんで」に対して「ええもん、(お嫁に)いかんもん」です(恐らくラインスタンプの「ええもん」のモチーフになっていると思われるシーン)。
戦時下の
見る人によっては反戦作品に全く見えない程度にまで、いい感じに美化された 日常を描いた『この世界の片隅に』の主人公・すずさんが、もしも現代に生まれて、
漫画『日常』(アニメ化された上に、『けいおん』のようにアニメの放映権をNHKが買ってまで全国の地上波で放映した国民的で現代的でポップで、『サザエさん』こそ美しい現代の家族像と言ってしまう政治家に恥をかかせるであろう、『日常』という名の日常アニメ)の主要キャラクターの女子高生が「そうはさせん、そうはさせんぞ」というBL漫画をこっそり描いている事が友達にバレたら高校生活いや人生が終わってしまう!!という危機的状況が、すずさんに起こった場合を描きました。いかに『この世界の片隅に』の主人公・すずさんの周囲には「良い人ばかりが居て、良い人に恵まれている環境か」を実感できる展開です。
もし描画主の周囲にそういう人が居たら、自分がいじめのターゲットにならない工夫ができる範囲で、絶対に「変わっている人」を援護します!!(て、描画主自身が「変わってる人」ですが!! BLには偏見は無いつもりでも、かといって興味は無いのですが・・・)。
今ならそう思える・・・単に昔の自分がチキンだっただけでなくて、
内面が無かったから、自分の考えを全く持てなかったのです・・・。
戦争になれば引きこもりは解決するのか?
「ボーッとしちょるだけではなく絵や家事の才もあり女の情念もある女性」すずさんを、引きこもり予備軍だの発達障害だの精神障害だの知的障害だのと言うのはけしからん、という意見を目にしましたが、すずさんが「引きこもりとも発達障害とも精神障害とも全く親和性の全く無い女性」なら、
「(日々自殺を考えている、そこの引きこもりの君!!どうか・・・どうか・・・)胸を張ってすねをかじれ!!(生きるために、お願いだから欲望をもっておくれ)」
との名言を残された精神科医の斎藤環先生が、初夜シーンや濃厚キッスシーンや万能家事シーンやらも有り、美人で、男受けする小柄で、友達も居て決してコミュ障ではないすずさんが主人公の『この世界の片隅に』を引きこもりにも薦めるとは考えられんのです。
もっとも、映画版では「昭和20年6月の出来事」で小姑の径子姉さんに「人殺し!!」と絶叫させ、その絶叫を際立たせる為に、すずさんの「例の場面」の直前の振る舞いを、原作漫画よりも「かなりマヌケで、ボーッとしとる女性」としてアニメ映画版では描いてしまった感じなので、そこが「傍に居た子供を○○せたバカ女」とか「そのくせ自分の右手にばかり執着して」などと・・・『この世界の片隅に』アンチ・批判の発生装置の1つと化しているわけですが・・・。
しかし、すずさんが一番悪いのではなく、そこら中に爆発物がばら撒かれているような状態を招いた「戦争」が一番悪いのであって、今も現実世界の武力紛争地域では、『この世界の片隅に』で描かれるような「ちょっとした引き金」で死傷を余儀なくされている一般市民が海外には大勢居ます。
「引きこもりや発達障害や精神障害でも生きられる状態」とは平和の恩恵です。
「平和は不断の努力で守っておくれ」とは平和ボケに対する日本国憲法からの警告です。
「戦争になれば引きこもり問題は解決する」などという意見が出ること事態、戦争を舐めている証拠であり、平和ボケの証拠です。
人々が平和ボケを続けると、社会はちょっとずつ悪くなっていきます。ちょっとずつ悪くなっていく社会に対して、人々は鈍感です。にぶい人でも気付くようになる頃には、事態が相当に手遅れになり、引き返せないところまで悪化してからでしょう。
アニメ映画『この世界の片隅に』の予告編にも使われた
「すぐ目の前にやってくるかと思うた戦争じゃけど、今はどこでどうしとるんじゃろ」と、「ウチはボーッとしちょるけぇ」な性格のすずさんのような人がそう思う頃には(勝ち目の無い「太平洋戦争」(『この世界の片隅に』内の戦中用語では「大東亜戦争」の開戦後)、既に手遅れなのだという事が分かります。手遅れなだけに「手をくれ!右手をくれ!!返しておくれ!!」な状態にすずさんは至った訳です。「返しておくれ!!」は峠三吉の原爆詩集『人間をかえせ』につながります。
ちちをかえせ ははをかえせ… Give me back my father...って国語じゃなくて英語の教科書に載ってたやつの方が印象に強く残ってるなぁ…
アニメ化もされた漫画『じょしらく』の海に向かって絶叫「返せ!!○○を!!」の元ネタは峠三吉の原爆詩集『人間をかえせ』への「皮肉」でしょう。「今時ストライキなんてやっているのは共産党員だけ」って描いてたので共産党員である峠三吉への皮肉でしょう。峠三吉は共産党員である以前に「被爆者」であり36歳という不自然な若さで病死されたのも原爆の影響かもしれません。よって『じょしらく』関係者の中で謎の死を遂げる人がいたら多分、峠三吉氏ののろいです。
さらに都市伝説であるはずの「黄色い救急車」をアニメ版『じょしらく』に登場させたので、精神科通いでキチピーの私からの呪いも受ける事になるでしょう(「精神保健法改正」による措置入院の大幅増加で「黄色い救急車」は都市伝説から現実の乗り物に昇格する可能性がある)。
「戦争になれば引きこもりは解決する」とドヤ顔で言える人は、戦争について相当無知なのでは
なお、原作でもアニメ映画でも『この世界の片隅に』には、戦時下の庶民を描いた創作物ではある意味で欠かせない「開戦を告げるラジオ放送」や「『聖戦』の開戦を喜ぶ人々」の描写は無いです。最近の戦前・戦時下モノでは、山田洋次監督の映画『小さいおうち』が、歴史の予備知識の無い人にも分かるように戦前~戦中を描いています。自国日本が戦争をしているのに戦争が「他人事」で「対岸の火事」で、「開戦景気」や「南京陥落セール」に沸き、「幻の東京オリンピック」(1940年・昭和15年開催予定)という実現しなかった未来に希望さえ抱いていた事も。
『この世界の片隅に』の冒頭・昭和9年の活気溢れる広島市街は太平洋戦争の開戦前でありながら中国との武力紛争で日本側が優勢だった時代であり、庶民の生活が厳しくなる様が描かれた昭和13年は日中戦争の時代、そこから主人公すずの嫁入りの昭和18年(ますます生活は厳しくなり結婚式も「万事簡便で申し訳ない」と言う有様)まで時間が飛んでおり、日米開戦の昭和16年12月は思い切りすっ飛ばされています。
「日本とアメリカが戦争をした事を知らない人々も少なくない現代人」(小学校・中学校の社会科で暗記してもすぐに忘れ、大学受験では出題されないので高校では勉強しない)が映画『この世界の片隅に』を観て「感動した」と言っても、「では、日本はどの国と戦争をしていたのですか?」と観客に質問してみたら「どこの国?」という残念な答えが返ってくる恐れがあり、それを想像すると「『この世界の片隅に』に感動しました」のブーム・嵐もどうしたものかという不安な気持ちにもなります。
「アメリカ!」という部分正答は、星条旗や米軍というセリフから、アメリカだけは対戦国である事が分かりやすいかもしれませんが、一瞬映る「太極旗」、戦前の闇市場の「台湾米」、終戦時のすずさんの慟哭「ウチの体はよその国のお米で出来ている」にも表れているように、対戦国(日本の植民地内で日本に反抗した勢力も含めて)はアメリカ以外に複数の対戦国があるわけです。
『この世界の片隅に』が戦時中を舞台にしているのに戦争映画らしくない映画だから良い、反戦映画のような説教臭くないから良いという感じの観客たちが映画のパンフレットやらガイドブックを購入しても「暗い戦争の歴史の解説ページ」まで読んでいるとは限りませんし、「絶賛、感動の嵐」は冷静な精神状態ではないので、当時の時代背景について関心を持ちネットで調べてみる人もどれだけいるか・・・そしてネットで公開されている歴史観は実に様々です。本当は長らく心にとどめて反芻すべき作品ですが「単に流行として感動を消費して終わる」「感動できる自分は良い人間だ、という自惚れが生まれる」危険性を感じます。それでもデメリットよりもメリットのほうが大きく感じるので私個人は人様に『この世界の片隅に』をオススメはします。
『この世界の片隅に』を猛プッシュしている精神科医の斎藤環先生は「反知性主義・ヤンキー精神を批判」していますが、ヤンキーは確かに『この世界の片隅に』を観るようなガラではありませんが、この頃は中途半端なヤンキーである「マイルド・ヤンキー」も多いようですし(まぁ、お陰で描画主はボコられたりカツアゲされたりせずに、ただの「ガン飛ばし」程度の被害で済むわけですが)、ヤンキーでない人が全てが斎藤環先生レベルの知性を備えた人間という事は決して無いでしょう。
「親として子供にジブリ・アニメ的な良い映画を当てがってやる」的な発想で、よく下調べもせずに小さい子連れで『この世界の片隅に』を観て、後半の悲惨なシーンに「子供が見るアニメでグロい描写はやめろ!」等とクレームをつける母親は、例え大卒であろうとも「反知性主義の人」と言えるでしょう。
しかし、クレーマーやらモンスター・ペアレントを反知性主義者として見下して無視せずに『この世界の片隅に』は「R12やR15指定」の年齢制限を設ける戦略は必要かもしれません。なお、R12(12歳未満は鑑賞不可)という指定は存在せず、PG12(12歳未満は保護者の助言を得られる状態で鑑賞可能)がありますが、「何の下調べもせずに『この世界の片隅に』を子供に見せて、残酷なシーンのクレームをつける親が一定数いる現実」を考えれば、全ての親が「子供に内容を説明できる技量と知性があるとは限らない(高学歴化とは裏腹に昔よりも出来る親は減っていそう)」ので、やはり映画の「R12」を設けるべきでしょう。
原爆の描写はアニメ映画『この世界の片隅に』よりも、アニメ映画『はだしのゲン』の方が過激ですが、『はだしのゲン』は通常の劇場公開よりも「平和教育に熱心な先生方」が児童のトラウマを省みず「年に1回程度という『森友学園に比べればソフトな手法』での思想教育」のために学校上映を普及させた経緯がありますので、アニメ映画『はだしのゲン』に比べれば『この世界の片隅に』の描写は残酷でないからR指定しなくてもよい、という比較論は適当とは思えず、単に悲惨シーンの長さやグロさの比較のみで判断せず、移り変わる世情にも配慮した公開方法が求められると思います。