【元ネタ『この世界の片隅に』のワンシーンの解説】終戦直後、空襲で焼けた市街地に形成された闇市の行列に並んだすずと径子に供されたのは戦勝国アメリカの占領軍から流れてきた闇ルート物資をごった煮した紙くず入りの残飯雑炊。残飯雑炊(残飯シチュー)の主な具材は、若者の群像劇を描いた漫画などで度々ネタにされる「照明を消して暗黒空間と化した部屋において、食べられる物なら鍋に何を入れてもOK」という悶絶ルールの「闇鍋」そのもの、いや「終戦からだいぶ時間が経って、経済的に豊かな時代を生きた日本の若者が興ずる闇鍋」よりも、『この世界の片隅に』などに登場する終戦直後の闇市で出されるお料理の方がずっとハードです。
さらに
「食料でなくても食材に見えるもの、よく煮込んでしまえば元ネタが分からない危ないモノ。よく煮込んだところで明らかに食べ物でないとバレるもの、容器の重量・スープの体積をカサ増しするために入れられる決して食べられないもの・無理して食べると死ぬモノ」の投入も許容される「エクストリーム闇鍋」ルールもしばしば適用された模様です。
これらの超トンデモ闇鍋ルールを残飯雑炊(残飯シチュー)が押し通せた理由の1つは「(相対的に)非常に濃い味付け」がされいたから・・・というのが『この世界の片隅に』を見れば分かるようになっています。砂糖、塩などの調味料も含めた食糧難に苦しめられていた庶民にとっては「具や栄養や味がアレだろう
『濃い味』がする食べ物」は「うまい」(「この世界の片隅に」劇中の表記ではUMA~と感じる事もあったようです。まぁ、ユーマ(未確認動物)が入ってそうなトンデモ雑炊ですけどね)一方では「とても食えた代物ではない」と評する感想もあったとか・・・。
何やら上記漫画の最後の1コマがブラックで残酷ですが、これはアニメ映画版「この世界の片隅に」の観客が「広島県が舞台でも、
広島市が舞台ではないから原爆は落ちないから大丈夫」などと油断し、劇中で「1945年(昭和20年)8月6日午前8時15分」を過ぎてから「
ある種の確信じみた安心」を感じたのを裏切り、最後のほうに
「モロに『はだしのゲン』のオマージュ」と思しき原爆描写を見せられて、また原作漫画を既読でストーリーを知っている観客も、原作漫画に比べて格段にリアルな『はだしのゲン』描写を見せられて、(どんなにアニメ映画『この世界の片隅に』を絶賛しようとも、初見では内心)ドン引きや思考停止、「アレは見なかった事にしよう」等と足掻いてしまう一連の人間の悲しい性(サガ)へのオマージュでもあります。
さて「この世界の片隅に」などに出てくる戦後の闇市の残飯シチューは、「マトモな残飯」も入ってはいたものの、チューインガムの噛みカス、セロファン紙(セロテープと同じ材質)の欠片、たばこの吸い殻、使用済みコンドームなどの「残飯というよりも、人体に有害でさえあるゴミ」も「具材」として容赦なくドラム缶の形をした鍋にブチ込まれて煮込まれた挙句、「
栄養シチュー」「ホルモン・シチュー」「ゴッテリシチュー」「
栄養スープ」などと銘打って販売されたのだとか。
戦後の闇市で命をつないだ市民がいる一方で、さぞや「
謎の病気」に罹り死んでしまった方々も多い事でしょう。
『この世界の片隅に』の物語終盤に描かれる終戦直後の時代から70年以上が経った21世紀初頭の日本では、悪化する子供の貧困問題により「無料または低価格で、温かくて栄養のある食事を提供する子供食堂」を作らねばならない残念な状況は見られるものの、終戦直後ほどのエクストリームな食料危機の状態にはありません。むしろ「心理的な栄養飢餓」に襲われている人が多いようであり、引きこもり問題もその結果の一部かも知れません。
引きこもりの親の高齢化で、引きこもりの生命が物理的に脅かされる寸前になった今、国が重たい腰を少し上げ40代以上の中高年の引きこもりに渋々と着目したり、「公的な支援を待っていられない・アテにならない・行動力のある俺らは同胞の肉を食らってでも生き延びてやる」とばかりに、意識高い系のアクティブ引きこもりが「ひきこもり新聞」や「ひきこもり大学」や「ひきこもりのピアサポート」などと叫び始めました。
しかし、意識高い系のアクティブ引きこもり、あるいは意識高い系の引きこもりにそそのかされた「アクティブひきこもり初心者」、自分自身の社会適応力の無さに目をつぶる元ひきこもりなのか自称社会人なのか極めて判然としない元ひきこもり経験者、自分自身の社会適応力の無さを引きこもりに共感する事によって自分は人間的にレベルが高いと思い込みながら自我を保っていらっしゃる一部の残念な「引きこもり共感者様」等が「講師」となって一般市民や引きこもりの親や当事者に、自分自身の日本海溝よりも深く仄暗く深刻な無知・無恥、バベルの塔よりも高い自己顕示欲を棚に上げて、
羞恥マスターベーション・プレーを披露する 有り難い説法をする「ひきこもり大学」も、それを有り難がる一部の当事者や親にとっては、闇市の残飯雑炊と大差がない「
食わずに死ぬか、食っても死ぬ可能性がそこそこ高いという、分の悪い・期待値の低いギャンブル(要するに胴元「ひきこもり大学」とかKHJ親の会などに「利益」「成果」を搾取される)と似ている」という気もします。
インターネット上で繰り広げられる匿名での引きこもりニート中傷は中々酷いですが、ネットでは意図的にそういうページを覗かずに回避する方法が、完全ではないにせよ有るには有ります。一方で、ひきこもり新聞だの、ひきこもり大学だの、ピアサポートだのと称する「支援媒体」によって引きこもり当事者が傷つけられた場合のダメージを想像すると身の毛がよだちます。「支援媒体」という看板に心は油断しきっていますから、そのような完全無防備の状態で心にダメージを受けたときの被害は相当酷い有様となるでしょう。皮肉にも、暴力的な支援団体を糾弾するはずの、ヤンキー顔負けの「正義感」に
溺れる あふれる「ひきこもり新聞」が、ひきこもり大学だの、ピアサポートだのと称するものが内包する
「支援媒体」による「精神的暴力」には驚くほど無頓着で、精神的暴力を堂々と見過ごす可能性が高いように見えます。