なぜカテゴリ分類で、政治ネタのカテゴリカに入れたかと言いますと、映画『校庭に東風吹いて』は、
「日本共産党の機関紙『しんぶん赤旗』に連載されていた小説が原作だから、どうせ左翼なんだろ?」を理由に、映画スポンサーを降りる企業が一部にあって、映画制作が滞った経緯があるそうです(ひきこもり映画『稲の旋律』のDVDをセール中に通販して制作会社に住所知られていたので
「余剰資金があったら10万円を無利子で貸しておくれ、○年後に必ず返済するから(泣)」というDMが送られてきたんよ)。
「左翼に国家の秩序を乱されないために」との善意の愛国心としてのスポンサー降板でしょうが、
現在の左翼は「老人は頭コチコチ、若手はヤンキーじみた発言を行いネットで炎上する議員や活動家」が多いように思いますので、求心力にもプロパガンダ性にもカリスマ性にも欠け、自滅は時間の問題ですので、保守の過剰防衛の感はあります。映画自体も
決して、「病気の子をダシにした左翼のプロパガンダ映画」という感じは一切しません。
論語とか孔子とかを暗唱させてる幼稚園があるから、コッソリ暗唱させても別に誰も気付かないよネ、という軽そうなノリで日頃から園児たちに「教育勅語」を暗唱させたり、運動会の選手宣誓で
「大人の人たちは日本が他の国々に負けぬよう尖閣諸島 竹島 北方領土を守り、
日本を悪者として扱っている中国 韓国が改心しめ、
歴史教科書で嘘を教えないようお願いいたします
安倍総理ガンバレ 安倍総理ガンバレ
安保法制 国会通過 良かったです」(チームASG? プロジェクトAKY?)
と、日本語の理解もまだ不十分な幼児達に、運動会の選手宣誓で暗唱させて、保守の方からも
「生理的に気持ち悪い」「北朝鮮のマネはやめろ」「日教組の教員が教室で子供を反戦・反日に洗脳する左翼と同レベルに堕ちるのやめろ」
・・・などと不評を買っている(運動会につき、
「我が学園にクソ左翼を連想さえるアカ組があるのにアベ組が無いのは納得いかん!」という事で、あの森友学園の幼稚園には「アベ組」があったのかも知れませんが、
「安倍総理」ガンバレ、って子供達に言わせちゃっている以上、もはや
「単なるアベ組の応援だよ!騒ぐなよクソ左翼が!」って言い訳は出来ないような・・・)。
で、テレビ映像をよく見ると「黄、緑、白」のハチマキは合っても赤のハチマキは映ってない・・・実にぶれない幼稚園ですなぁ。森友学園が小学校作ったら女児に「赤いランドセの所持禁止」「女子トイレのマークも赤色ではない」「入学式とかも紅白の幕で体育館を装飾しない」「赤信号は自己責任で無視しろ。アカの命令に屈せず死んだら本望!名誉の戦死!(自主規制)に祀ってやるから!(ウチは日本でも稀有な神道の学校だから特別枠がアレしてあるんだよ!感謝しろ有り難がれ!!)」とかだったりして・・・?
他にも、8億円をアレしてもらったりとか、いろいろとお国から便宜を払ってもらっている感のある「森友学園」が運営する私立幼稚園のような政治色は、例え日本共産党の機関紙・しんぶん赤旗連載だった小説が原作であろうとも、映画『校庭に東風吹いて』にはわざとらしい政治色は特に感じられませんでした。
「森友学園」だと元総理大臣の森喜朗氏を連想させ、森喜朗氏は「日本は天皇を中心とした神ってる国である」と発言されたので、「森友学園」と森喜朗氏は思想的には近いものがあるようにも見えますが、安倍晋三氏の奥様が学園だか幼稚園だかの、パンフだかホームページに載っていたので、森喜朗氏よりも安倍首相との関係が俄然濃厚そうですから、ここは分かりやすく「アベ友学園」「アベラーユーゲント」に改名したほうが森喜朗氏に迷惑が掛からないというものです。
特に運動会の選手宣誓という絶好のシチュエーションにおいて「ハイル・ヒトラー」と同じ片手を高く上げるボーズで「安倍総理バンザイ」じゃなくて「安倍総理ガンバレ」と幼児達に言わせているのですから(本当はダイレクトに「安倍総理バンザイ」と言わせたかったけれども、ここのキチピーのブログ主でさえ「それじゃヒトラー万歳、ハイルヒトラーを連想されて困るんでは?」と気付いた程ですから、当日になって慌てて急遽カンペを出して「こっちを言え」って変えさせたのかも・・・?)、万年与党であらせられる自民党様自身の為政の結果として「国益最優先の
少数精鋭主義の少子化」とは言え、少ないパイを奪い合う教育業界においては、他の教育機関と差別化を図り、幼稚園児の保護者に「強制ではないとはいえ」3万円のDVDを売らねばならないほどの残念な財務状況からの一日も早い脱却を図る意味でも、
「アベラーユーゲント」、あるいはドイツ語に敬意を表して佐藤製薬(
ドイツ語のユンカー(Junker)由来の皇帝液を作っている栄養ドリンクメーカー)と、近鉄(日本一高いビル「ハルカス」を阿倍野に建てた鉄道会社。運行する鉄道路線網も私鉄で日本一だ!日本一は良い事だ!)を脅して
「アベノユンケル」に改名して悪目立ちするのがマーケティング的には狙い目でしょう。
自民党と言えば、上記パロディ・イラストで「自転車好き」でという理由で登場して頂いた、
超党派の「自転車活用推進議員連盟」加入の有名な政治家「谷垣禎一」氏は、奇遇な事に映画『校庭に東風吹いて』の主な撮影地である京都府のご出身らしいです。
さて、映画『校庭に東風吹いて』の内容は「同じく『しんぶん赤旗』に連載されていた小説で映画化もされた、ひきこもり女性を主人公とした『稲の旋律』」以上に「
体制批判のニュアンスが微塵も無い(弱者の窮状、生きづらい社会を、暴力革命など起こさず、その困難を
自分の出来る範囲で何とかしてみようとするワケアリ女性教師のささやかな奮闘と、貧困や病気に苦しむ子供たちの成長を温かく描写する)」という「自称・革命の前衛(口先だけだから、ネトゲで前衛任せたらパーティーが全滅するかも?)たる日本共産党の機関紙・しんぶん赤旗らしくない内容」です(
映画『アンダンテ!~稲の旋律』は反ネオコン、反TPP、反市場原理主義、反競争社会のニュアンスは嗅ぎ取れた。
しかし「アンダンテ」は音楽用語で「
歩く位の緩やかな速さで演奏する」であるのに、映画タイトルは『アンダンテ
!~稲の旋律』とビックリマークが入っており、「
緩やかさを強制する!」という左り上斜めのセンスと無節操さが、
左翼はブサイクとか言われる原因じゃないのかな?と思ったりします)。
『校庭に東風吹いて』の原作小説は読んでいませんが、そんな『校庭に東風吹いて』が、日本共産党の機関紙「しんぶん赤旗」で連載されたのは、もしかして
「主人公の女性教師(沢口靖子)は臨時教員という設定なの?」かと思いました。
映画版を見た限りでは、臨時教員という台詞は出てこないのですが、教員資格を持っているとはいえ、「また辞める破目になりますよ」などと上司から嫌味を言われるワケアリの事情を抱え、教員キャリアにブランクのあった中年女性が、このご時勢、いきなり正規の小学校教諭として復職できるのか?」「中年女性が家から自転車(しかもロードバイクではなく
ママチャリ)で1時間半もかけて学校に通う」というのは・・・健康づくりとか自転車が趣味とかではなく、待遇が良くない臨時教員ゆえ、一般の派遣社員のごとく
「通勤交通費さえ支給されない」からでは?と思いました。
ママチャリが1キロを5分で走ると計算すると、片道18キロの通勤距離となり、1ヶ月の通勤定期代は「JRの地方交通線で9,450円」(映画の舞台は関西地方で、実際に関西地方で撮影され、劇中には関西弁が飛び交い、画面背景にはJR関西本線っぽい1両編成の銀色と青色のディーゼルカーが登場する)ですが、地方の中小私鉄のローカル線だともっと通勤定期代は高いです(三重県の伊賀鉄道(近鉄からリストラ・経営分離されて設立された鉄道)なら、だいたい同じ距離で1ヶ月の通勤定期代は15,310円)。
あえて車の免許を取らないのは、「家が山間部の狭隘道路の先にある」「家が僻地過ぎて自動車教習所に通うのも困難」「一般的に物覚えの能力が落ちてくる中年世代なので運転免許の試験になかなか合格できない」「車を買って、労働者を部品のように使い捨てる自動車メーカーの利益に貢献するのはマッピラだ」「どこかに分かりやすい形で、プロレタリアートの窮状を描かないと共産党の機関紙・赤旗の連載小説としては
プロパガンダ性 メッセージ性に欠けて
信者 読者の共感を呼ばないから」かも知れないと思いました。
しかし、映画版『校庭に東風吹いて』では、労働問題には多分ほぼ触れず、主人公の女性教師(沢口靖子)は貧困母子家庭の生活保護の申請を手伝ってあげたりするのです。貧困家庭の子供のために保健室では「汚れた服の洗濯」をしてあげて、「貴替えの服」も常備してあるのですが、襟の内側のタグに「備品」などと書かれているので「保健室の服」であるとクラスメートにバレてしまい、慈善的な対応も、何やら神奈川県・小田原市の職員が着用していた「生活保護は悪だ!(不正受給は悪だ!という趣旨らしいですが「保護 悪」と書いてある)、生活保護を舐めるな!」と書かれた、市職員有志が作成し、業務中に着用していた
「SHATジャンパー」(生活 保護 悪阻止 チーム)とダブって見えてしまいました(そのジャンパーを着て小田原市職員が訪問すると、「この家は生活保護を受給している」という事がご近所に簡単に知れ渡り、
罪悪感にさいなまれながら生活保護を受給している市民の精神病発症で余計に医療費が掛かったり、そこを突き抜けると生活保護の受給者を自殺に追い込むという究極の方法で「生活保護費の削減」が出来てしまう)。
家などでは会話できるものの、学校等の公共の場所では意思表示が出来なくなる
「場面緘黙症」(ばめんかんもくしょう)の女児の学校生活を、同性の親友女児が自主的にサポートしてあげているのですが、本来、たった1人の女児だけに任せていてはいけないと思います。主人公の女性教師(沢口靖子)が「場面緘黙症も個性の一つだから、みんなでそれを理解しよう」という方向に持っていくのが救いですが、他の自称・ベテラン教師たちは、特別支援学級や養護学校を親に薦めるものの(しかし世間の目に追い詰められて、意固地になっている場面緘黙症の女児の母親はますます拒否する)「一般学級に残りたいなら自己責任で」と放置し続けるのは目に見えていました。主人公の女性教師(沢口靖子)が来なければ、
学校で聴覚障碍を持つ女児を集団で苛める漫画『聲の形』(声の形)のような、極めて残酷な展開になっていたかも知れません。
「場面緘黙症は10歳を超えると云々・・・」という台詞は重たいです。ブログ主も小さい頃は「学校等でほとんど喋れませんでした」。もし症状が緩和しなかったら、支援学級とか特別学級とか特殊学級とかに隔離されていたかも知れません。単に「友達ができない」から休み時間ひとりボッチとか、遠足のバスの席で誰ともペアになれないとかを通り越して、「教科書とか忘れたら誰にも貸してと言えない」ので罪悪感にさいなまれながら備品をくすねると「借りればいいじゃない!この泥棒が!」と教師に鬼の首でも取ったかのように、嬉々として怒られてしまうのが一番悲しいわけです。『校庭に東風吹いて』の女性教師(沢口靖子)もまた、新人教師の時代に、場面緘黙症を理解しておらず、場面緘黙症の子に
「がんばって話しかけてごらん」(私も教師等から言われた言葉です)という、「本人を絶望のどん底に突き落とす指導」を善意で行ってしまった事を一生後悔しているのです・・・。
もっとも私の場合は、場面緘黙症を抜けた(ある程度諦めた)後も、「一応」しゃべれるようになってからは「内面の空っぽさ」に長年苦しめられる事になる訳ですが。そして「友達なんて居なくても生きていけるかな、と思っている病」を発症します。
『校庭に東風吹いて』とは別の、場面緘黙症の元当事者が書かれた体験談・克服本の読者感想
「結局、友達頼みなのか。良い友達に恵まれる運が無いと一生治らないのか」という感想には、私も大いに共感せざるを得ません、残念な意味で。(あるいは映画『校庭に東風吹いて』に登場するような、心優しく、支援能力も有る先生に恵まれる事。さらに映画『校庭に東風吹いて』に出てくる女児の場合、先生の他に、症状に理解のある同性の親友もクラスに1人いる。運が良すぎるので今後の人生が心配である・・・て創作上の物語の女児を心配してどうする・・・)。
友人といっても、本当に理解のある・・・私の場合は「私の内面の空っぽさも理解してくれ、なおかつ内面の獲得に協力してくれる友達」・・・これは子供にとって相当難しい注文ですから、私自身は「子供のうちに問題が解決するのは不可能だった」と結論付け、仮に、ずっと友達に恵まれ続け一人ボッチにならず、運良く新卒で就職という社会のレールに乗れたとしても、内面の無さでどこかで必ずつまづいただろう、「社会でより重要なポストを得てから、より高い場所から落下していたら、心に負う傷も大きくなって、もう今は生きていないかも知れない」と考えています。
「友達なんて居なくても生きていけるかな、と思っている病」の私が言うと説得力に欠けますが、
「良い友達・一生の友達は、子供のうちにしか作れないというのは、『昔は良かったね教』という名の似非宗教を信じている世間の人々の迷信」です。大人になってからの場合、子供の頃には考えなくて良かった、年齢、性別、肩書き、上下関係、先入観、宗教の勧誘で近づいてくる人などの邪魔が入るようになりますが、それらに適度に対処できるようになれば、世間で固く信じられている「良い友達・一生の友達は、子供のうちにしか作れない」という迷信は覆せます。
「押して駄目なら引いてみな」の論理の通り、私のように「友達なんて居なくても生きていけるかな、と思っている病」に少し感染してみると、誰もが見ると憂鬱になりエンガチョしたくなる「アオカビ」に、天然ぺニリシン(抗生物質含)が含まれているが如く、意外な好影響があるかも知れません。日本は納豆とか味噌とか、発酵食品の宝庫ですが、発酵も腐敗も「菌類などの微生物」による産物で、人体にとって有益か害かの違いで、紙一重です。
話がそれますが、教育評論家の尾木ママこと尾木直樹氏も推薦している永野のりこ先生の漫画
『電波オデッセイ』において、主人公の中学担任となる甲野先生の
自己紹介「私は子どもの頃、変なやつみたいに思われてたかもしれないな。『内面のない奴』みたいな」という台詞は私にとって極めて重たいです。今なら「じゃあ、先生はどうやって内面を獲得したんですか?」とか「今でも『変な先生』と思われてますよ」とか突っ込めるのですが、精神状態の悪いときに読むと破滅的な思いになります。
甲野先生は担任クラスに「病気により中学留年」している子が居るのを知っていたので
「私は落第した事があります!でも、こうして先生になれたんだから皆も大丈夫!」と大声で宣言し――お勉強の出来る人が先生になる傾向があるから、『電波オデッセイ』の甲野先生みたいな「落第とかの挫折を知っていて、さらに感受性が豊かな教員(しかも後述するように心理学まで学んでいる設定?・・・実際マンガ『電波オデッセイ』原作者の永野のりこ先生ご自身は臨床心理学を学ばれているようです。※
コミックナタリーより)」は実際には少なそうですねぇ――、問題に直面する生徒への寄り添いは、経験豊かな心理カウンセラーに比肩するほどの対応をする、ぜひ自分の担任にもなってほしかったような、マンガ『電波オデッセイ』に登場する甲野先生は創作上の物語における「神ってる先生」です。
映画『校庭に東風吹いて』は、病院の途中で寄れる街の、老人会主催の映画上映会(1100円。しかも飛び入りOK、年齢制限なし)に潜入して鑑賞したのですが、豊かな人生経験に裏打ちされた「
体育倉庫に鍵をかけない学校なんてあるのか?(高学年の男女がけしからん事に使うじゃないか!実にけしからん!)」「沢口靖子の演技はどうしてもオーバーくさい」というツッコミ感想(障害を持ち苦しむ子供が出てくる映画なので、ネット上では中々批判的な感想・意見を見かけないものである)や、「私たちの子供時代と違い、遊ぶ時間を奪われた『放課後なき今の子供達』は可愛そうだ。我々老人は、こんな社会を放置していていいのか」という主催者の挨拶、上映中の爺ちゃん婆ちゃんのすすり泣きなどを聞けて良かったです。