まー、スタジオジブリで映画を作っていたM監督の方がよっぽどロリコンだと思いますが・・・
ちなみに、
西日本のナイスミドルな方に「なぁ、おっちゃん」と話しかけるのは良いですが、「なぁ、おっさん」と話しかけるとケンカを売ることになると聞いた事がありますのでご注意下さい。
ひきこもりを「侮辱しない方法で支援する」専門家として有名な精神科医の斎藤環先生は、アニメ映画(および原作漫画)『この世界の片隅に』を
「批判のしようが無い作品」と評しちょる。ほいで「むしろ批判意見を聞きたい」と余裕までかまして挑発しちょる。描画主の場合、『この世界の片隅に』を批判する場合、自分自身のコンプレックスに依拠した、個人的で陳腐でつまらん八つ当たりの批判しかできん。
大学受験でほとんど出題しないから、という理由で、高校も平然と近・現代史を教えない昨今、「東洋一の軍港・呉」という台詞だけで「日本人だって戦争で人を殺した。東洋一の軍港である呉は、『この世界の片隅に』などに描かれている、軍で一生懸命働いていた人々の誇りと共に、血塗られた歴史をも背負った町」である点にまで思い至る観客がどれほどいるんかいね(ハショリの無い原作漫画を読む限り漫画家の、こうの史代先生は、それに気付いて欲しいというニュアンスを込めているとは感じられるけど)。
しかし、そこへ踏み込むと、反戦だ左翼だイデオロギーだと叩かれてしまう。なんだかねぇ。
ただ、広島、長崎、東京大空襲などがよく題材にされる中で、「東洋一の軍港である呉、市井の人々の誇りと、血塗られた歴史をも背負った町」を舞台に選んだのは凄いねぇ。
日本軍の攻撃に苦しめられた海外の人々(高齢化により減少しちょるけど)は、海外で『この世界の片隅に』を予定通り公開した場合どう受け取るじゃろうかねぇ。最初の海外公開がメキシコという「太平洋戦争(『この世界の片隅に』内の戦前当時の国内呼称は「大東亜戦争」)」の不参加国で、アメリカのトランプ大統領に圧力を掛けられている国である点も意味深じゃ。
大日本帝国の同盟国であったナチスドイツも戦争で市街地が大爆撃を受け、民間人が沢山死んでるけれども、「ナチスドイツ市民の温かい日常生活と、それが戦争で破壊されて行く映画」を世界公開したら、どうなるじゃろ? 敗戦時に、強制収容所という名の殺人工場の実態を知って激怒したナチスのパットン将軍のエピソードを入れればOKかいね? 本質的には『この世界の片隅に』も変わらん部分はあると思うけど・・・「
あれはナチスの犯罪だ。ドイツは悪くない、我々ドイツ人もナチスの被害者だ(エーッ、民主的な選挙でナチス党に投票しておいて何言うちょるの!?)」との残念な言い訳をする一部のドイツ人がおる国では、『この世界の片隅に』のような映画は作りたくても作れんかもねぇ。
※上の1コマ漫画は、「ヒトラーユーゲント」(ヒトラー青少年団)よりも日本ではマイナーな「ドイツ女子同盟」の体操服じゃ。ヒトラーユーゲントの女性版じゃ。胸の所にあからさまにカギ十字のロゴが入っちょるのが特徴じゃ。なお、劣悪環境の強制収容所で「ドイツ第三帝国の一等国民様の口に入る食料品を生産しておったかは微妙じゃ。そこは『この世界の片隅に』が、やたらと食べ物ネタを劇中にぶっ込んでくるので釣り合いを取るべく仕方なしに描画主が行った演出じゃ。)。
戦争や歴史解釈について、右派と左派が平行線の議論を行うことは果たして不毛か・・・「戦争や歴史解釈について議論が続く限りは、それらが風化されにくい」という意味では、意義があると思うんじゃ。不毛ではないから右も左も頑張ったらええ。
心理学的な何かでは「インナー・チャイルド」とか、保護者等から虐待を受けてきた「サバイバー」の方が「自分は可愛そうだったね」と自分を慰めるのは大事というのはとても分かる。しかし、国家の場合、「多額の賠償金を課せられて可愛そうだったね」「外交とかで色々騙されて可愛そうだったね」・・・をやり始めると、何か危ない方向へ行きそうもするし、実際そうやってナチス党を支持した昔のドイツ国民は暗黒面へ行ってしまったんじゃ。
『この世界の片隅に』は、「(戦争等で傷つけられた)分断の修復」がテーマのような気もするけれども、そしてギスギスした「何かと分断された今の世界」へ「分断の修復」を呼びかける効果が期待できる反面、お国が(自国が)可愛そうだったね、仕方ないよね、って方向にもいきそうな気がするし、そうなると逆に世界の分断を煽る気もする・・・なんだか諸刃の剣だねぇ、これは相応のリスクを伴ったギャンブルかもしれないねぇ。
もーねぇ、
すずさん(のんさん)可愛い、可愛い、可愛い、萌えー、ばかり言っていたらいけんよぉ。次のステップに進まな! 特に斎藤環先生とか、斎藤環先生とか、斎藤環先生とか・・・
今気付いたのですが、『この世界の片隅に』について良いところ・悪いところをバランスよく批評している人様のレビューを見るとホッとします。と、同時にそういうレビューは少ないかも知れないと思うと気持ちが落ち込みます。私自身、第1回目・最初に『この世界の片隅に』を見たときは「情報量が物凄く多い映画だから、すぐに感想というか、すぐに結論を出してはいけない映画なのだ」と思いました。仮にあるシーンで泣いたとしたら、なぜ泣いたのか理由を必死に考えました。
2016年は『この世界の片隅に』『シン・ゴジラ』『君の名は。』など邦画メガヒットの当たり年とも評されましたが、挙げた3作品は下半期に偏っています。
みんな、感動を欲しているのだと思います、病的に。
きっと今が生きづらい世の中なのでしょう、いろいろ不安なのでしょう、ストレスも溜まっているでしょう、身も心も疲れているでしょう。
『この世界の片隅に』は善意の、恐らく無害なメッセージだと思いますが、もし、上記のパロディ漫画で触れたナチスドイツの指導者・ヒトラーみたいな人が出てきて、その人の演説が感動的に聴こえたら(実際に昔のドイツ国民はヒトラーの演説に感動したから選挙でナチス党に投票した)、今の日本国民も皆が雪崩をうつように、一気に何かに追従してしまいそうで怖い、そういう世相を感じます。
障害者とか引きこもりとか生活保護とか社会的弱者とか○○人は死ね、というドス黒い感情の反動と埋め合わせのための『この世界の片隅に』感動と大絶賛の大嵐ですか。残念ながら『この世界の片隅に』に感動したくらいで「帳消し」には出来ませんよ、きっと。『この世界の片隅に』が名画か否かに関わらず証明したものは、一度信じたものに人々がワーッと立ち止まらずについて行ってしまう、今の時代の危うさだと思います。
とにかく、
ブームになりよった上に、著名な精神科から「批判のしようが無い作品」と持てはやされるものって、場合によってはマイノリティを追い詰める事もあると思うんじゃ。文化芸術を駆使した正論攻めの極地じゃ。ほじゃけど
マジョリティ受けという「最大多数の最大幸福」のために、マイノリティの傷つきは社会や市場経済を動かす為の必要悪として正当化され、マイノリティの傷つきなんて一瞥もされずに無視されるようになると思うんじゃ。特に「売れれば正義」の世の中において、『この世界の片隅に』が大ブレークの方向へ行きちょって、
日本アカデミー賞受賞やらバイアスやら同調圧力によって、純粋に作品を評価できない状況が作られていくご時勢では・・・。『この世界の片隅に』に高い評価が付けられ、良い評判が立ちよる前に、上映館が限られていた「マイナー映画臭が漂っている」うちに鑑賞できたウチは幸運だったと思うちょるよ。「マイナーな映画」という括りが喪失されれば『この世界の片隅に』は「
戦時中におけるリア充ライフ」の部分が丸出しになってしまうけぇ。
あの日は、電車が人身事故でストップして、病院の前に買っておいた夜間割引のチケットが無効になるとこじゃった。ほいでも、とっさに思い浮かんだ、徒歩も駆使した迂回ルートで映画館の隣りの駅まで行く&寸前に電車が運転再開等のキセキが重なって、本編上映開始の直前に間に合うたんじゃ。「君はブームになる前に『この世界の片隅に』を観ておくべき」という天のお導きじゃったかもしれんねえ。
いっぽうで、宮崎駿監督は、ほぼ全ての作品において、主人公を子供とかお姫様とか未婚者とか魔法使いとか老婆とか、ロリコンのルパン三世とか、世間嫌いで思想まで赤い豚にして、
「主人公を、どこにでもいそうなリア充には設定せず、「世界系的な特権階級」という設定はしても決して現世のリア充に見える人たちとしては登場させない」という意味では、「左翼としての、どうしようもない発言」「描けないアニメーターに暴言を吐くパワハラ・モラハラ大魔王」である点を割り引いても、
「この人は非リア充をも傷つけずに映画を作る赤い天才」というふうに宮崎駿監督は見えてしまうんじゃ。
『赤い豚』や『ハウルの歩く城』よりもずっと濃厚なキスシーンが有り、天井の電気を消してベッド・インがある『風たちぬ』だけは例外じゃけど、海外で『風たちぬ』は高評価じゃったらしい。要するにアダルトな恋愛描写が受けたんじゃ。赤デミー賞を受賞した『千と千尋の神隠し』も、「家出少女が神様専用の『個室付き浴場』でブラック労働」というのが、世界情勢とマッチして受けたんじゃ。
海外の純真無垢だと思いこんでいた子供に「『魔女のヤマト運輸』の
キキが飛べなくなった理由は?」と尋ねると、「シオカラトンボと
ヤッたから 恋をしたからに決まってるでしょ!」と、フランスのマセガキは答えたそうじゃ。アメリカでは、
日本ならアダルトビデオのタイトルにしか見えん『
40歳の童貞男』という「コメディ」映画までが一般の映画館向けに制作公開されてるんじゃ(純愛映画やのうてコメディ映画やと! まぁ邦題『40歳の童貞男』にも、
リア充帝国がモテない村を絨毯爆撃するぐらいの敵意・悪意がダダ漏れだねぇ。過去には英語の原題『
The Cure』(少年同士のお医者さんごっこ)いう映画を邦題「マイフレンド・フォーエバー」にデッチ上げた実力からして、『40歳の童貞男』は『エンジェル・フォーティーンズ』(40代の天使)にするくらいの配慮があれば良かったねぇ。チェリーボーイだとそのまんまやし、バージンも意味が割れてるけぇねぇ)。
何が?欧米の「自分は自分」「他人は他人」の個人主義じゃ? そうやって「自由・平等・個人」の影で、
恋愛至上「原理」主義が跋扈して「傷つきやすい人々の個性と人生を蹂躙しまくっている」から、追い詰められた非モテ・非リア充・モテない村の村民たちがこぞっって
「埼玉県ではモテない村の村民にも市民権を保証します! by FM埼玉ナックファイブ」のプロパガンダ放送も耳に入らず
「君でも空気嫁じゃなくリアル嫁が持てるゾ。リア充を好きなだけリアルの銃で殺せるゾ」との甘言に釣られてイスラム国とかに入信する者が続出してしまうんじゃ。
そこいくと二次元に、マジョリティの異性愛のみならず、マイノリティの同性愛やバイセクシャルやケモノ愛や、様々な恋愛や萌えやフェチの形の、嫁や婿を探し、それがある程度許容される日本文化の平和性の先進性は素晴らしいのんじゃ。
日本の漫画アニメの人気が世界で高まっている理由の1つは、世界中の非モテ・非リア充・モテない村の村民たちが、
自由・平等・個人主義とは相容れない、恋愛至上「原理」主義という名の「性的・精神的暴力」から逃れるための、心の居場所になっておるからじゃろ、日本の(一部の)漫画アニメが?!
『この世界の片隅に』の、「ちっちゃくて美人で優しくて癒し系の、誰からも愛されるすずさん」に対して、
世界中の観客全てを敵にまわしてでも開口一番に「冴えん」と駄目出しをする径子さんは、ある意味で神かな、と思っとるけぇ。
もし径子さんが居らんかったら、『この世界の片隅に』は、第二次大戦下という厳しい時代の下で行われた
エクストリーム・プラス思考と、その限界を描く厭戦映画、かつ
単なるリア充賛美アニメ映画にしかならなかったと思うんじゃ。現世に生きづらさを感じて傷ついている方々は、径子さんをリスペクトせないけん。